吉田成研究室  |東京工芸大学芸術学部写真学科|

写真表現・写真史・画像保存を研究する吉田成研究室。

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これからの写真−2−
写真は20世紀に入って、技術的にも、また表現の上においても華やかに展開し、世界中で膨大な数の写真が撮影されました。その意味では、20世紀は“写真の時代”ということができるでしょう。
そして私たちは今、21世紀を迎え、写真史上、大きな分岐点に立っているように感じます。かつて経験したことのない、大きな変化が起きつつあるといっても過言ではないかもしれません。いうまでもなく、それはデジタル技術の登場によってもたらされつつある変化です。1839年のダゲレオタイプの公表は、センセーショナルであり、画家はもちろんのこと、宗教家や知識人たちを期待と不安の渦の中に巻き込んでいきました。今日の変化はそこまでセンセーショナルなものではないかもしれません。しかし写真の将来に期待と不安を感じている関係者は少なくないでしょう。
それでは、デジタル技術の登場により「写真は死ぬ」のでしょうか?確かに、ある部分の仕事はデジタル技術によって奪われていくに違いありません。かつて写真術の登場により、多くの画家たちが仕事を失いました。しかし、同時に写真と絵画は相互に影響し合い、そのことにより表現が展開してゆくという関係が、今日まで続いていることは歴史が教えるところです。
また写真の歴史においては、機材の発達、感光材料の発達、そして表現の展開は、三つ巴の関係にあるように思われます。その観点に立てば、デジタル技術の登場により写真表現は新たな展開を迎えるに違いありません。写真の発表の場も、これまでのように印刷媒体を通じて行うもの、オリジナル プリントをギャラリーで展示する方法等に加え、様々な方法が試されつつあります。すでにデジタルから出力したプリントは、展示・利用されていますし、今後、想像もつかないような新たな展開もあるかもしれません。こうした写真を取り巻く環境の変化は、写真表現に変化をもたらさないはずがないでしょう。
デジタル技術では画像処理も可能です。合成写真を容易かつ正確に制作できるようになりました。しかし、そのことにより写真は生命線を失ったかもしれません。報道写真における嘘は今に始まったことではありません(世界中の多くの報道写真家が、命がけで真実を報道しようと努力していることは、いうまでもありませんが・・・)。しかし、意外にも写真を見る側の人間は、比較的最近まで、“写真は真実を伝えるもの”という、ある種の“信仰”を持っていたのではないでしょうか。その受け取る側の信仰、あるいは幻想が、今、崩れ去ろうとしているように思います。受け取る側の変化は、報道写真に対するものだけではないでしょう。かつて、写真は機械と化学によって画像を形成することから芸術ではないといわれました。手を加えることができないことが、記録としての真実性を高めた反面、そのことにより芸術性が否定されたのです。
しかしレンズの前に、それが“実在する”からこそ人々に感動を与える写真もあるでしょう。デジタル技術の登場によって、そこが崩れ去りつつあるように思います。見る側は、それが作り物かもしれないという目で写真を見るようになりました。これまでにも合成や、その他の特殊技法による表現はなされてきました。しかし、それは一部の特殊な人々による特別な技術でした。それが今や、写真の専門家でなくても、家庭にあるコンピューターを用いて、一般の人たちが、合成やその他の特殊効果による写真の制作を手軽に楽しむことができるようになりました。こうして作られた写真は、“遊び”の域を越えないものかもしれません。しかし、写真を取り巻く環境の変化が、写真を見る目を変えていく・・・そんな気がします。
また一方、技術革新が進み、技術的に可能になったから、写真を撮る側が古くなった技術を捨て去り、すべてを新しい技術によって表現するとは限らないとも思います。カラー写真の技術がこれだけ発達したのにも関わらず、モノクロームのオリジナル プリント制作に拘る写真家は少なくありません。何を隠そう私は、モノクローム作品を鑑賞することも、制作することも大好きです。特に最新のメディア アート系の展覧会を見た後に、美しいモノクロームのプリントを見ると、深い感動を覚えながらも、妙に心が落ち着くような気がします。その意味では、デジタル技術が登場したからこそ、かえって銀塩写真、とりわけモノクロームのプリントの良さが見直される可能性もあると思います。
写真とは、実に不思議なものです。写真の本質を考える時、“複製”ということが一つの重要なポイントであることは間違いないと思います。しかし、私たち写真に関わる者は、“オリジナル”ということにも強い拘りを持っています。また写真術が発明された当初から、写真には“記録”という側面と、“表現”という側面とが存在していました。写真は記録か芸術かという論争は、写真術発明の当初からなされてきました。しかしそれは、そんなに簡単に割り切れるものではないのでしょう。
複製とオリジナルの問題も、記録と表現の問題も、写真術発明の頃からすでに存在していました。こうした問題が、すっきりと割り切れずに、混沌とした部分が残っていることこそが、写真の面白さであり、深さなのかもしれまさせん。デジタル技術が登場した今、写真の本質について、改めて考え直す機会が与えられたような気がします。また写真表現の立場に立てば、今日、技術的な選択肢が増えたということができるでしょう。そしてそれに伴って、写真表現に新たな展開が期待できると思います。
現状では、従来の銀塩写真とデジタル画像とが同じ土俵で論じられることも多いようですが、そもそも、それは間違いかもしれません。もっとも、銀塩写真とデジタル画像が別々のメディアとして切り分けられるようになったとしても、相互の影響関係は、それ以後も続くと思われますが・・・?
いずれにしても、私個人は、銀塩写真による写真表現の炎が、今日のデジタル技術の目覚ましい発展に負けることなく、これからも燃え続けることを期待しています。
デジタル技術が登場した今、手作りによる写真の意味が浮上してきているともいえるでしょう。また“写真の本質”が明らかになりつつあるようにも思います。デジタル技術が実用化された今だからこそ、“写真を制作し、研究する”ことが、とても面白いと私は感じています。
| 吉田 成 | DAYS | 15:55 | comments(0) | trackbacks(0) |
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